少々、他の方のブログで、この問題について考える機会がありましたので、これを期に考えをまとめてみようと思いました。
以前「渡米生活。」の方でも書きましたが、私は渡米するまで、「肉や魚を食べない」という決断にかなり偏見を持っていました。
宗教上の理由ならなんとも思わないのですが、そういうわけでもないのに、「動物が可哀想だから」食べない、という考え方が、非常に感傷的で理性に欠ける、という印象があったからです。
「じゃあ、野菜は土から引っこ抜かれて食われてもいいんか」とも思っていましたし、そもそも人間は雑食なんだから野菜だけという食習慣自体が合わない、とも思っていました。
今現在はというと、肉を全く食べないわけではないですが、可能な限り食べないようにしている、というのが現状です。卵も牛乳も、以前だったら大盤振る舞いで使ってましたが、なるべく制限しています。
というわけで、私には、どちらの立場の気持ちも、多少理解できるような気がするのです。
で、そういう複雑な心境でよくwebで繰り広げられている両者のバトルを見ると、時折もったいないなあ、と思うのです……。
どうして、お互いにお互いを全面否定するのかなあ、と。
多分、どっちかが全面的に間違っていたら、とっくに勝負がついている、と思うのですよ……。
でも、この手の争いは、ずっと昔からあるわけで、未だに決着がついていない。
それは、きっと、どちらの言い分にも一理あるからだ、と思うのです。
そしてもっといえば、その二つの立場の間には無数の立ち位置が存在するはずで、そのうちのどれが正しい、ということもないのじゃないかな、と。
私がそういう風に思うようになったきっかけは、アメリカで、色々な種類のベジタリアンやノーミートイーターと友達になったことでした。
知識層が多いウィスコンシン州マディソン市という土地柄も影響しているのかも知れませんが、私の狭い知人の範囲でいうと、全体の2割くらいは、自分の意思で何かしら食に対して制限をかけています。
宗教上の理由で動物性タンパクを食べない人もいますし、単純に動物が好きだから、現在の商業畜産を肯定できないから、という理由でお肉だけ食べない人もいます。こういった人の中には、完全なベジタリアンになろうとしたが、自分の体質には合わないので、魚だけは食べている、という人も結構います。
私も魚は食べてます。まあ、土地柄、簡単に美味しい魚が手にはいる場所ではないので、そんなに量は食べていませんが。
こうやって言葉だけで書くと、矛盾している、と感じる人も多分多いと思います。
魚だって養殖されているし、そもそも、魚の漁では必ず食用に流通しない魚が網にひっかかるのだから、漁業が畜産に比べて酷くない、という根拠はないかも知れません。
実際、私も渡米するまではそう考えていました(だから、感傷的で理性的ではない、とハナから相手にしなかった)。
でも、問題はそう言う事じゃないんだと、友人達を通して教えられました。
この問題は、食生活に敢えて制限をかけることに合理的かつ辻褄の合った理由が存在するかどうか、ということではないのです。
生きて行くために他の命を犠牲にせざるをえない現実に、一人一人がどう真剣に向き合うか。
真剣に向き合った上で、どう自分自身を納得させられるのか(納得させられない事も多いけど)、という問題なのです。
この問題は、真面目に向き合えば向き合うほど、簡単に答えは出ません。
だからこそ、本当に真面目に考えた人ほど、色々悩んで時には変遷したりもします。
ヴィーガンになってみたり、一転して肉もOKになってみたり、魚だけ解禁してみたり……。
自分の理想はあっても、体がついていかない、という事も起こります。
その様をはたから見たら、それは多分矛盾に見えるでしょう。
で、アンチ・ベジタリアンの人(ときには、真面目なヴィーガンの人からも)から、これ幸い、格好の攻撃材料とばかりに、非難されるわけです(笑)。
私も、短い間ですが、魚も極力制限した時期があります。
数ヶ月はよかったのですが、その後、朝極端に寝覚めが悪くなりました。思考の集中力も低下して、長時間同じ問題を考え続けるのが難しくなりました。
卵や乳製品を大量に摂取すれば多少はマシになりますが、卵や乳製品はそもそも雌の家畜が一生のうちの一時期にしか生産出来ないものですから、これを大量摂取すれば結局肉を大量消費するのと同じことになってしまいます。生まれて来る家畜の半分は雄ですし、鶏や牛が卵や乳製品を生産できる年数も限りがありますから。
勿論、大豆タンパクはかなりの量を摂取していました。日本よりは、豆腐以外の大豆製品も簡単に手に入りますので、その点は困りませんでした。でも、ある時から、いくら大豆タンパクを摂取しても体の飢餓感が収まらなくなりました。
結局、これ以上続けると仕事や体調に支障が出ると判断して、完全なベジタリアンは諦めました。
勿論、色々、他にも方法はあったのかも知れない。ナッツ類を多くとるとか。
しかし、現実問題として、そこにこれ以上時間や経済力を割けるかというと、それは難しかったのです。
植物性タンパクだけに依存した生活に適応していける人もいるし、やはり体質的に向かない人もいる。それが現実だと思っています。
また、実際に動物性タンパクが必要な人もいます。
特に、子供や老人が健康な体を作る(維持する)ためには、必要です。
こちらのベジタリアンの人も、子供には菜食を強いていない人がほとんどです。
大人になったら、自分でどうするか選びなさい、というスタンスで、私はそれも非常に理にかなった考え方だと思います。
昔、ペレットがウサギの健康を考えて作られていなかった時代は、ウサギの寿命は3〜4歳でした。
栄養事情と医療が改善したお陰で、それが10歳まで伸びたのです。
人間にあてはめて考えれば、どちらも、背後には、食材として失われる命、そして医療の発展のために実験で失われる動物の命があります。
それらの全てを完全に排除すべし、という方もいますが、私にはそこまでの覚悟は出来ません。
(勿論、可能な限り犠牲を減らして欲しい、とは思いますが)
やっぱり、ウサギが病気になれば、他のウサギの命を犠牲にして作られた薬や医療で、なんとしても助かって欲しい、と思ってしまいますし、病気になったのが友人や家族であれば、他の動物を犠牲にしてでも助かって欲しい、と願ってしまうと思います。
HRSのウサギ友達も、ペットとしてのウサギを救い出して幸せにしようと一生懸命活動する一方で、お肉を食べる人もいますし、ウサギを使った実験を研究でされている方もいます。
これも、表層だけ見たら矛盾に見えると思う。
だけど、それを安易に矛盾だと非難する人の中で、彼らほど必死に、助かるはずのペットとしてのウサギたちの命を助けようとしている人がいるかといったら、私は120%ノーだと思います。
それじゃ、やっぱり人間は本来動物性タンパクを摂取する生き物だと諦めて、何も考えないでスーパーでお肉を買って食べればいいのか?
今の私は、やはり、そこで「Yes」とは言いたくないのです。
散々考え、悩み抜いた末に、「Yes」と答える人もいると思います。それはそれで良いと思う。
だけど、私は、現在の畜産から屠畜に至るまでの過程が、もう少し動物にとって負担の少ないもの、恐怖の少ないものに変わる余地があると思うのです。
特に屠畜の過程が動物に大きなストレスを強いるものであることが、私が肉を制限する一方で、魚は食べる理由の一つです。
動物は人間より、よほど勘が良いですし、気配に敏感です。
食肉センターに運ばれるトラックに詰められる瞬間から、何が待ち受けているか、ほぼ感づいていると思う。
食肉センターで、フックつきコンベアーに生きたまま逆さに吊るされて感電死を待つ鶏、エアガンや電気プラグのところまで自分で歩かされる牛や豚たちは、どんな恐怖を味わっているだろう、と思う。
ウサギも、コンテナにつめられて重ねられ、順に後ろ足から逆さに吊るされてコンベアーで運ばれ、首を切られる映像を見ました。特に酷い屠畜場の映像というわけではなく、ちゃんとEUの中で認可された屠畜場の映像です。
感電で既に気を失っているウサギもいましたが、後ろ足をつられたまま必死でもがいているウサギもいました。部屋には、ウサギの甲高い鳴き声が響いていました。
大動物は、簡単には動かせない。だから、直前まで自分の足で歩かせて、殺したらフックに吊るす。
あるいは、殺す前から、フックに逆さ吊りにしてコンベアーで運ぶ。
衛生管理も、一カ所に集めてやった方が効率的だし安全。
理屈は分かります。大量に処理しようと思ったら、それが一番効率が良い。
だけど、その考え方自体が、どうにも受け入れ難いのです。
命をいただくのに、殺される場所まで自分で歩かせるとは……。
私が家畜なら、せめて、命を奪うための工場の中ではなく、自分の生まれ育った環境に近いところで死にたいと思うと思うのです……。
牛や豚、鶏のことはよくわからないけど、ウサギは絶対そうだと思います。
(まあ、日本で兎の屠畜をやっている食肉センターはないですが)
現在の屠畜のシステムも、動物の苦痛をなるべく減らす方向で発展してきたのは分かっています。
かつては農家や地元の精肉店で行われていた屠殺、解体の作業が、食肉センターに集約されたのにも、人間の利便性ばかりではない理由もあると思う。
しかし、ここで止まってほしくない。もっと、よりよい方法を模索し続けて欲しい、と思うのです。
(誤解のないように注釈しますが、私は現在の屠畜のシステムに満足できていないのであって、そこで働く人々に対しては感謝の思いはあっても差別や非難の感情はまったくありません。食肉文化が今後なくなることはないでしょうし、であれば、誰かが動物の命を奪わなくてはならないわけで、人の分までその大変な作業を担っていただいているわけですから。)
ただ、そう思っているだけでは、世の中は動かないわけで……。
もっと良い方向に動かすためには、私は何をやったらいいのかな、と常々思うわけです。
例えばの話ですが……。
私は、今は肉をあまり食べませんが、もし畜産動物の育成から、最後の屠畜に至るまで、人間のために消費される命に最大の敬意を払って作られたお肉なら、どんなに値段が張っても買って食べようと思います。まあ、経済的理由で、そんなにしょっちゅうは食べられないかもしれませんが。
逆に、動物達の命を道具としかみなさないような環境で育てられたり、もしも屠畜の過程でむち打つ、蹴る、殴るなどの虐待を行っていたりしたら、その食肉センターで作られたお肉は徹底的にボイコットします。
命を奪うものは全て駄目とボイコットしたり、自分一人が何やっても変わらない、と全部受け入れたりすれば、現状から何も変わらないと思うからです。
お肉を売る人からすれば、どうせお肉を買ってくれないベジタリアンの言葉は、お肉が好きでとにかく値段を下げて肉を売ってくれ、と迫る消費者の声より大事なものにはなり得ないでしょう。
それは、畜産が産業、商売である以上あたりまえの事です。
だからこそ、彼らにもっと畜産動物の命に敬意を払って欲しい、というメッセージを伝えたかったら、自分がお肉を食べ続ける必要があると思うわけです。
ただ、問題は、屠殺の現場で何が行われているか、我々消費者が知る方法が殆どないということ。
どのように育てられたかについては、もう少し情報公開が進んでいますから、ある程度選ぶ事が出来ますが、どのように殺されたかに関しては、まったくのブラックボックスです。
(勿論どういう手順で食肉処理されたかは、webで見られますが、そういうことを言っているのではない)
誰も、屠畜の現場を公表したがりませんし、おそらく殆どの消費者は関心がない、あるいは見たくもない、というところだと思います。
この消費者の姿勢が180度変わって、動物達に可能な限り恐怖や苦痛を与えない工夫をしている食肉工場の製品を選びたいから積極的に屠畜現場を公開しろ、という風潮にならない限り、今後も屠畜の現場がオープンになることはないでしょう。
アメリカやEUですら、それが達成される日が来るのかどうかすら分かりません。
(下手に公表すると、今度は過激なヴィーガンの人達から激しい攻撃を受けそうですしねえ……色々難しい。)
ただ、一方で、日本ではまだまだそれ以前の段階で改善の余地がある、と思える事もあります。
たとえば、日本では鶏卵のパッケージにケージフリーかどうかを記述する習慣がありません。
アメリカでは、鶏をバッテリー型のケージに押し込めたまま飼育するのは虐待であるという考え方が広まっているので、毎日ケージから出して運動をさせるか、あるいは完全にケージのない飼育環境で育てた鶏の生んだ卵には「Cage free」の記述があります。
ケージフリーは、卵の栄養面に関しては特に制限がありません。だから、卵の栄養価や、味などは、普通のバッテリーケージ卵と同じでも、あるいはそれより悪くても構わないわけです。
ケージフリー卵は、一般にそうでない卵より1ドルほど高い値段で売られていますが、それでもそちらを選んで買う人もいます。
このへんは、日本も積極的に取り入れたら良いのじゃないかと思います。
(まあ、実をいうと、このケージフリーの条件が笑っちゃうほど緩くて、一日に一度扉を開けさえすれば鶏が実際に外に出て来なくてもOKということらしいんですけどね……(汗)まあ、テレビの料理番組の中で見た話なので、どこまでホントかは保留。日本でケージフリーの条件が設定されたら、そんなアホな基準は通らないと思いますが。)
また、食肉とは話がずれますが、洗剤や化粧品、シャンプーなどで動物実験をしていない、ということを明記している商品がそれなりの数あります。これらの商品も値段高めであることが多い(2倍くらい高いものもある)ですが、それでもそれを選んで買う人がいます。
これも、是非日本で広まって欲しい。実は動物実験をしていない会社は結構あるのですが、どうもそれがセールスポイントになっていないのですね。消費者の反応が微妙だから手控えているんでしょうが、そのへん、積極的に消費者を啓蒙して、新しい顧客を惹き付けるのも企業の手腕の一つだと思うんだけどなあ。
つまり、まとめると、アメリカでは品質に対してお金を払う以外に、動物福祉に対してお金を払う、という習慣が既に根付いているが、日本ではそういう土壌が育っていない、ということになります。
それは、知識層があまりにもこの問題に無関心だと言うこともあるし、企業が面倒な問題にはフタとばかりに、積極的に消費者を啓蒙しなかったせいもあるでしょう。
でも、本当にそれでいいのか? 日本。。
日本は既に、長期間のデフレに悩まされていますが、私はその原因のひとつは、日本人が常に安くて良いものを追求して、それ以外の価値に関して無頓着だという事実だと思っています。
(残念ながら、ここまでデフレが長引いても、まだそこに固執し続けているようですが)
政府も、経済界も、それは良い事だと宣伝し続けてきたのですから、まあ当然といえば当然の結果です。
だけど、本当にそんな都合のよいことがいつまでも続くのか?
安くて良いものを提供するには、生産の過程を合理化するか、一方的に商品を大量購入してくれる消費者を探して大量生産し、単価を下げるしかありません。
今までの日本が発展し続けられたのは、昔技術がなくて合理化できなかった部分をどんどん合理化してきたから、そして国外に新しい市場を求めて顧客を増やしてきたからです。
でも、それってどちらも、いつかは枯渇する資源のようなものですよね。
今TPPの議論がさかんですが、これも結局、現在の資源が枯渇したのでもっと広い市場で自由取引ができるようにしよう、ということでしょう。
それ自体は、もはや止める事の出来ない流れで、今回見送ってもいずれは加盟ということになるのかもしれませんが、現状、「安くて良いもの」ばかりに価値を見いだしている日本でそれを受け入れたら、大変なことになるだろうな、と正直思っています。
アメリカでは、スーパーで、堂々と「Buy Local」運動が展開されています。
地元近くで生産されている商品には、その店舗から何マイルの位置で生産されたかのタグがついて、ひとめで分かる仕組みです。で、「地元製品を買って地元を活性化させよう!」と訴えます。
大統領だって、不景気の時には「日本車でなくアメリカ車を買え」とかいうような国です。
つまり、国民が、貿易が自由になったら、自国の製品をじゃんじゃん海外に売りつける一方で、自分で自国の産業を守らなければならないことを知っているのです。
この「買い支える」という視点が、今の日本ではあまりにも希薄だという気がしています。
何を「買い支える」か。
地元の商品だから買い支えるでも良いし、オーガニックだから、でも良い。
次世代のことを考え、地球に負担をかけない生産をしているから、でも良い。
従業員に不当な時間外労働をさせていないから、でも良い。
勿論、動物福祉の観点もあります。
そういった、値段と品質だけにとらわれない価値に、積極的にお金を払う層が日本国内で増えていかないと、日本はいずれ「もっと安くて良い製品」を作れる国に負けると思う。
現在だって、そこでばかり競争しようとするから、動物福祉どころか人間の福祉のまでひどく削らざるを得ない状態ですが、そこを極限まで頑張ったって、このすさまじい円高では、為替で大きな差が出る国々に勝てる競争ではないでしょう。
(ちなみに余談ですが、これは私の実感。
国土が広いアメリカでは、特に生鮮食品で、海岸から一週間かけてトラックで内陸に運ばれてくるものと、ローカルに採れたもので歴然と鮮度に差がでます。
また、国外でどんなに安く買い叩いても、国内を運搬するのは人件費の高いアメリカ人なので、値段にも差がつくことがあります。
つまり、何もしなくても、国土の広さが一種の関税みたいな状況を作り出しているのです。
海に囲まれた細長い日本とは大違いなので、彼らのセールストークを真に受けてはいけない(笑)。)
こういったことは上から言っても駄目で、消費者の中から生まれてボトムアップで押し上げないと、なかなか定着しません。
そういう意味では、政府や生産者ではなく、知識層が消費者の立場からもっと早くにその点を啓蒙すべきだったと思います。
実際、アメリカではそういう運動を見ることが出来ますし、私が知っている大学の先生、職場の研究員仲間などは、皆そのへんを真面目に考えてそれぞれの意見、主張を持っています。
(前にも書きましたが、WalMartは労働者を搾取しているのでWalMartでは買い物をしない、という人もいます。どのくらい搾取しているか、私は知らないので、これはあくまでその人の意見ですが。)
ああ、大分話が逸れた(笑)。
結局、この問題をクリアするには、日本人が(多分)苦手な二つの過程を国民それぞれがこなさなくてはならないのです。
ひとつは、自分の意思で、自分の価値観で良いものを選別する、ということ。
もう一つは、その結果、「自分の価値観に合わないものを買わない」という消極的なアクションだけでなく、「自分の価値観に合うものに積極的にお金を払う」という能動的なアクションも必要だということ。
この二つがどちらもクリアされないと、なかなか生産者は動いてくれない。
どんな風に商品が作られているのか、わかるまで自分で調べること。
生産者にどんな商品が欲しいか、臆せずにハッキリ伝えること。
今は、どこもメールフォーム設置していますから、昔よりずっと簡単です。
労働や、生産者が一生懸命守っている倫理観に、きちんと正当な対価を支払ってそれらを買い支えること。
いくつかのサービスや商品を比べて、どれが一番安くてお得か、じゃなくて、このサービスや商品だったら、この値段支払います、って自分で言えるようになったらいいんじゃないだろうか。
自分のお金なら、それが出来ます。会社のお金では難しいかもしれないけど。
正直、お財布は痛いです……でも、何かを我慢すれば、どうしても買えない値段ではないし、たとえたまにしか買えなくても、最初から値段を見て諦めるよりはいい。
国や行政がやれることには、限度があると思う。
TPPが通るかどうかなんて、正直、どっちに転んだって、日本人がこのままだったら早晩日本は沈没すると思います。
自分が何を良いものとして選ぶか、十年後、二十年後に、どういう日本になって欲しいか、そんなことまで国の判断に頼ってはいかん、と思うのですよ。
自分が良いと信じるものを消費者が自発的に「買い支える」ということ、私は、日本の経済のためにも、動物の未来のためにも、今一番大事なんじゃないかな、と思います。