縁というもの

人だけでなく、動物にも、物にも、縁というものがあるのだ、としみじみ思う。

人だけでなく、動物にも、物にも、縁というものがあるのだ、としみじみ思う。

私は一応研究者のはしくれで、あまりこういう事をよく考えずに信じるものではないのかも知れない。普段とは明らかに違うだろう精神状態でものごとを眺める時には、見るもの感じるもの全てにバイアスがかかっている、というのも分かる。多分、他人から同じ話をきいたら、「それは統計の範囲内の偶然だヨ」と内心思うだろう。
けれど、そう思うことで、心が未来に向かって行く事ができる。そうして、その統計の範囲内の偶然を、今この時引き寄せたのは、何か私の知らぬ力だ、という敬虔な気持ちになるのだ。

この四日間の出来事は、既に仔牛が書いた通りだけれど、ロスがいなくなってから、いろいろなものが不思議なほどスムーズに私達のもとに集まって来た。
1年以上ずっと探していたのにみつからなかった、可愛い紅茶ポット。
ロスの灰をいれる、可愛いシュガーポットを探していて一緒に見つけた。
そもそも、このアメリカの田舎街で、繊細で可愛いものなんてそう簡単に見つかりはしない(失礼!)。それが、家からすぐ近くのモールの、アイリッシュ系の輸入ものを扱っている店で簡単に見つかった。
値段も手頃。ミルクポットに花を添え、シュガーポットに灰を入れて、紅茶ポットは自分達がお茶を入れて飲もう、と三点セットで買ってしまった。
Macy’sに寄り、陶器売り場をポットを探している間に見つけた、LLADRO(リヤドロ)の花ウサギのお人形。
とても可愛かったけれど、鍵付きのガラスケースの中に入っていて、とても私の給料で気軽に買えるものではなく、その時は見送った。
そうしたら、仔牛が前の語学学校で大変よくしてもらったミキさんが、全く別の店で買ったその人形をプレゼントしてくれた。
最初はぽつんと、ロスの毛と最後の夜に残したふんの一粒、燭台とお水くらいしかなかったロスの祭壇は、可愛いポットと可愛いミルクさし、可愛いウサギのお人形で、あっという間に賑やかになった。

仔牛は外を出歩く気分ではなかったのだろうに、私に付き合ってスパイダーマン3を見にいってくれた。
その中で出て来た写真入りのロケットを見て、仔牛はロスの写真を入れるロケットが欲しい、という。
そもそもこのアメリカの田舎町で……(以下同文)と思いながらも、Macy’sを探したら、これ以上ないというくらい仔牛の好みのロケットが見つかってしまった。
14ドルのものが、半額セールで7ドル。
写真を持ち歩く気になんて、なかなかなれなかったけれど、その偶然に背中を押されるようにして、ちょっと、私もロケットもってみてもいいかな、と思った。
同じものを探したけどなくて、唯一、ハート型にスワロフスキーのビーズがついたロケットなら綺麗かな、と思う。
60ドルの値札がついていた。周りには溢れている半額セールの札は見えない。
仔牛の銀製のペンダントトップはともかく、これはちょっと簡単に手が出ないな、と思ったが、仔牛が一緒につけようよ、というオーラを全身から発していたので、一生懸命私の希望に付き合ってくれている仔牛のためにも、買うか、と覚悟してレジに向かった。
レジのお姉さんが、カードを作れば更に20%オフになる、と言う。年会費がいらないというので、手続きをして請求を見たら、なんと全部で26ドルになっていた。

このときに、思った。
ああ、ロスは、私達の身近に置いて欲しいのかも知れない、と。
写真を見るのも辛くて、遠ざけてきたけど、ロケットに仕舞って、いつも身近においておいて欲しいと思っているのかもしれない。
なにしろ、特別扱いが大好きの甘えん坊ウサギだったから。

15分遅刻して、HRSに向かう。
探しに行くのは、新しい家族。最初の子ウサギのえせるをたった3日で、自分達の無知のために死なせてしまってから、あちらこちらのウサギショップを歩き回った事を思い出す。
あの時は、えせるに似た子、生まれ変わりを探して、一ヶ月彷徨った。
今度こそ、必ず幸せにするから。お願いだから、もう一度帰って来て欲しい。そんな思いで、探し続けていた。
一件のウサギ屋で、少しえせるに似た母ウサギをみつけ、店主に事情を話すと、店主はこの母ウサギと雄ウサギをかけてみる、と言ってくれた。
一ヶ月後、生まれた子ウサギの中に、同じ柄はいなかった、と連絡を受ける。
がっかりしながら、それでも、そのウサギ屋に子ウサギを見に向かった。
そうして、メスでも灰色でもない、ロスに出会った。
「将来のえせるのだんなさんに」
えせるの生まれ変わりを探す心に、そう言い訳して、ロスを連れて帰った。

自分達の失敗で死なせてしまった小さなえせるに固執する心を、ロスはゆっくりと解してくれた。
「あまり姿形に拘らない方がいいよ。こういうのは、相性だから。相性がいいのが一番だよ」
えせるの生まれ変わりを探し続ける私達に、ウサギ屋の店主は、私達を気遣いながらもそう言った。
そして、ロスはその身でそのことを証明してくれた。
毎日が小さな茶色いウサギを中心に回り始め、私達はいつの間にか、えせるにはいつか会える日が来るだろう、と、穏やかな気持ちになっていた。

小さなえせるが天に上って、ロスが私達のもとへ来た。
これは、小さなえせるがつないでくれた縁だ、と、その時に思ったことを、今また思い出す。

半年後、同じウサギ屋で、飼い主にアレルギーが出たため飼えなくなったらしい里親待ちの灰色のメスウサギに出会う。
アレルギーの話は本当かもしれないが、体重がミニウサギなのに1.2キロしかなく、痩せ細っていた。
子供の頃は飼い主に可愛がられていたのだろうに、おそらく途中から飽きられてしまったか、世話をする人がいなくなってしまったのだろう。
それでも、捨てるよりはよほど良いのだけれど……。
胸の白い毛も、目の周りの淵も小さなえせるにそっくりだ。
唯一、鼻筋に白い毛がない、それだけが違いだった。
「えせるの生まれ変わりを」と思ってきた私は、そこで暫く動けなくなった。
この子は、えせるより早く生まれているから、えせるの生まれ変わりではない。
それでも、この子の目は、えせるが大きくなった時にきっとこうなるだろう、と思い描いていた姿そのままだった。
躊躇っていた私に、うさぎ屋の店主は言った。
「その子、なくしちゃった子に似てるでしょ? 気に入ったのならあげるよ」

その時、私は一人で、仔牛は仕事中だった。
でも、その言葉をきいた時に、私達がえせるを探し続けてきたという偶然、今この子が里親を待っているという偶然、そして、なぜか、うさぎ屋さんの、私達に引き取ってもらいたい、と思っている強い願いが伝わってきてしまって、私は仔牛に尋ねる事もせずに、貰い受ける事を決めてしまった。
これも、ちいさなえせるがつないでくれた縁だ。
仔牛が、どうしてもえせるの生まれ変わりが欲しい、と言うなら、またその子を探し続ければいい、と。
もしかしたら、ロスとこの子の子供の中に、ちいさなえせるが居るかもしれないし……

それから、えせるは意図せずかかってしまったケースも含め、ロスとの間に20匹近い子供を生んだ。
そうして、気がつけば、子供達よりなにより、よほど母えせるの方がえせるらしい、と思っている自分達が居た。
いつから、子供達の中に小さなえせるが生まれる事をそれほど強く願わなくなったのか、よく覚えていないが、今の私は、やはり母えせるの中に小さなえせるの魂がとけ込んでしまったのではないか、と思っている。
生まれ変わりではなく、縁の中に、逝ってしまった大切な存在の欠片が、私達を通してとけ込んでいくのだ。

HRSで出会った三匹の男の子達は、外見は誰もロスには似ていない。
流石に、ここまで違うと、まだ暫くは辛いかな、もう少し様子をみようか、と思っていたら、最後につれられてきた白と赤茶のブチのサテンのマンゴー君が、挨拶をしにきてくれた。
その湿った鼻の感触、初対面の人間の膝に恐がりもせずに前足をかける、小さな重みが、出会った頃のロスを思い出させた。
彼は1歳、まだ性格はやんちゃだ。
このくらいのウサギはこんなものかな、と思っていると、ふとした仕草が、どんどんロスに重なってくる。
最初は、全然ロスに似ていない、と思っていたのに。
私達の目の前で、ロスの魂が彼にとけ込んでいくのを見ているような、そんな不思議な感じがした。
別れ際に、だっこをさせてもらって、ロスより小さく見える瞳を覗き込むと、ロスと同じ色の瞳がこちらをじっと見ていた。
何故か、この目が、ロスに似ている、と思った。形も大きさも違うのに、晩年の、優しいけど、ちょっと悲しげな瞳に似ている、と。
この目を、もっと楽しく輝かせてやりたい、と思った。何故か、そうすれば、ロスも楽しくなれるような、そんな気がしたからだ。

結局、10日後にもう一度エセル、プチとの相性をみることにした。
特にバトルが起こらなければ、マンゴー君をうちに引き取る事になるだろう。
もしかしたら、もっと探せば、ロスに似た子はいるのかも知れない。
親バカながら、ハガキのモデルにもなれる、と思っていたロスに比べると、サテンのマンゴー君は美人とは言いがたい。
でも、私は、これもやっぱりロスがつないだ縁なんじゃないだろうか、と思っている。
3匹を物色して、唯一えせるのマウント攻撃に怯えなかったマンゴー君を見て、「よし、こいつに決めた!」とロスが入り込んでくれたのじゃないか、と、そんな気がするのだ。

その夜、私は不思議な夢を見た。
このところ、ずっと夢見が悪く、何か調子がおかしいとずっと思っていたのに、それは久々に穏やかな夢だった。
ベルリン・フィルの演奏をスピーカー越しに聞いている自分。
それは、マーラーの交響曲第2番「復活」の最終楽章だった。
「復活」なんて、もう何年もまともに聞いていないし、マーラーも最近は聞かないのに、何故夢の中でそれを聞いていたのか、自分でも分からない。
多分、ロスはマンゴーを通して「復活」した、と、信じたい自分の潜在意識が見せた夢なんだろう。
でも、この四日間で、沢山積み重なった偶然の縁が、もしかしたら、という気分にさせてくれるのだ。
もしかしたら、ロスが、「もう俺は復活したぞ!」と、伝えにきてくれたのかも知れない、と。

アメリカには、Rainbow Bridgeという、作者不詳の散文詩がある。
虹の橋が天国への手前にかかっていて、飼い主より先立ったペットは、そのふもとで老いる事も病む事もなく、やがて飼い主がそこを訪れる日を待っている。
そうして、いつかペットと飼い主は再び橋の麓で出会い、共に天国へと渡って行く、というものだ。
それはとても美しい詩で、涙を誘うものでもあるけれど、この中に書かれているのは、過去から未来へ一直線に続く世界観だ。
日本に生まれ育った私には、もう少し、違う感傷がある。
虹の橋は天国へとかかっているのではなく、他の誰かに向けてかかっているのじゃないだろうか、と。
その虹の橋とは、残された人間の、逝った者に対する記憶であり、橋がかかることで、逝った者の記憶は別の存在の中で生きる。
そうして、記憶の虹で結ばれた縁は、繋がる者全ての未来を少しずつ変えてゆく。
向こう岸に待っているのが、シェルターで里親を待っている動物なら、それは激変といっていいだろう。
縁を結ぶ前と後は、既に同じでは有り得ず、そこに、誰かが生きた証が残る。
そうして、いつか自分が誰かの記憶となり橋を渡る日がくるまで、生き物はみな、縁のリレーをしながら生きていくのではないだろうか。

大切な存在を失えば、悲しい。つらい。
「もう、辛い思いはしたくないから……」と、大切なペットの記憶を胸に仕舞い、二度とペットは飼わないと言う人も多いと聞く。
私も、昔、大変賢かった犬が逝ってしまった時には、そう思った。
でも、小さなえせるは、そうして自分の記憶にしまい込むだけではない、別の生き方を教えてくれた。
虹の橋のたもとを掴んで、我が家にきてくれたちいさなウサギ達に、私は心から感謝している。

縁、という単語を、英語で調べようとしたが、なかなか日本語のニュアンスをうまく表す単語がみつからなかった。

私は一応研究者のはしくれで、あまりこういう事をよく考えずに信じるものではないのかも知れない。普段とは明らかに違うだろう精神状態でものごとを眺める時には、見るもの感じるもの全てにバイアスがかかっている、というのも分かる。多分、他人から同じ話をきいたら、「それは統計の範囲内の偶然だヨ」と内心思うだろう。
けれど、そう思うことで、心が未来に向かって行く事ができる。そうして、その統計の範囲内の偶然を、今この時引き寄せたのは、何か私の知らぬ力だ、という敬虔な気持ちになるのだ。
この四日間の出来事は、既に仔牛が書いた通りだけれど、ロスがいなくなってから、いろいろなものが不思議なほどスムーズに私達のもとに集まって来た。
1年以上ずっと探していたのにみつからなかった、可愛い紅茶ポット。
ロスの灰をいれる、可愛いシュガーポットを探していて一緒に見つけた。
そもそも、このアメリカの田舎街で、繊細で可愛いものなんてそう簡単に見つかりはしない(失礼!)。それが、家からすぐ近くのモールの、アイリッシュ系の輸入ものを扱っている店で簡単に見つかった。
値段も手頃。ミルクポットに花を添え、シュガーポットに灰を入れて、紅茶ポットは自分達がお茶を入れて飲もう、と三点セットで買ってしまった。
Macy’sに寄り、陶器売り場をポットを探している間に見つけた、LLADRO(リヤドロ)の花ウサギのお人形。
とても可愛かったけれど、鍵付きのガラスケースの中に入っていて、とても私の給料で気軽に買えるものではなく、その時は見送った。
そうしたら、仔牛が前の語学学校で大変よくしてもらったミキさんが、全く別の店で買ったその人形をプレゼントしてくれた。
最初はぽつんと、ロスの毛と最後の夜に残したふんの一粒、燭台とお水くらいしかなかったロスの祭壇は、可愛いポットと可愛いミルクさし、可愛いウサギのお人形で、あっという間に賑やかになった。
仔牛は外を出歩く気分ではなかったのだろうに、私に付き合ってスパイダーマン3を見にいってくれた。
その中で出て来た写真入りのロケットを見て、仔牛はロスの写真を入れるロケットが欲しい、という。
そもそもこのアメリカの田舎町で……(以下同文)と思いながらも、Macy’sを探したら、これ以上ないというくらい仔牛の好みのロケットが見つかってしまった。
14ドルのものが、半額セールで7ドル。
写真を持ち歩く気になんて、なかなかなれなかったけれど、その偶然に背中を押されるようにして、ちょっと、私もロケットもってみてもいいかな、と思った。
同じものを探したけどなくて、唯一、ハート型にスワロフスキーのビーズがついたロケットなら綺麗かな、と思う。
60ドルの値札がついていた。周りには溢れている半額セールの札は見えない。
仔牛の銀製のペンダントトップはともかく、これはちょっと簡単に手が出ないな、と思ったが、仔牛が一緒につけようよ、というオーラを全身から発していたので、一生懸命私の希望に付き合ってくれている仔牛のためにも、買うか、と覚悟してレジに向かった。
レジのお姉さんが、カードを作れば更に20%オフになる、と言う。年会費がいらないというので、手続きをして請求を見たら、なんと全部で26ドルになっていた。
このときに、思った。
ああ、ロスは、私達の身近に置いて欲しいのかも知れない、と。
写真を見るのも辛くて、遠ざけてきたけど、ロケットに仕舞って、いつも身近においておいて欲しいと思っているのかもしれない。
なにしろ、特別扱いが大好きの甘えん坊ウサギだったから。
15分遅刻して、HRSに向かう。
探しに行くのは、新しい家族。最初の子ウサギのえせるをたった3日で、自分達の無知のために死なせてしまってから、あちらこちらのウサギショップを歩き回った事を思い出す。
あの時は、えせるににた子、生まれ変わりを探して、一ヶ月彷徨った。
今度こそ、必ず幸せにするから。お願いだから、もう一度帰って来て欲しい。そんな思いで、探し続けていた。
一件のウサギ屋で、少しえせるに似た母ウサギをみつけ、店主に事情を話すと、店主はこの母ウサギと雄ウサギをかけてみる、と言ってくれた。
一ヶ月後、生まれた子ウサギの中に、同じ柄はいなかった、と連絡を受ける。
がっかりしながら、それでも、そのウサギ屋に子ウサギを見に向かった。
そうして、メスでも灰色でもない、ロスに出会った。
「将来のえせるのだんなさんに」
えせるの生まれ変わりを探す心に、そう言い訳して、ロスを連れて帰った。
自分達の失敗で死なせてしまった小さなえせるに固執する心を、ロスはゆっくりと解してくれた。
「あまり姿形に拘らない方がいいよ。こういうのは、相性だから。相性がいいのが一番だよ」
えせるの生まれ変わりを探し続ける私達に、ウサギ屋の店主は、私達を気遣いながらもそう言った。
そして、ロスはその身でそのことを証明してくれた。
毎日が小さな茶色いウサギを中心に回り始め、私達はいつの間にか、えせるにはいつか会える日が来るだろう、と、穏やかな気持ちになっていた。
小さなえせるが天に上って、ロスが私達のもとへ来た。
これは、小さなえせるがつないでくれた縁だ、と、その時に思ったことを、今また思い出す。
半年後、同じウサギ屋で、飼い主にアレルギーが出たため飼えなくなったらしい里親待ちの灰色のメスウサギに出会う。
アレルギーの話は本当かもしれないが、体重がミニウサギなのに1.2キロしかなく、痩せ細っていた。
子供の頃は飼い主に可愛がられていたのだろうに、おそらく途中から飽きられてしまったか、世話をする人がいなくなってしまったのだろう。
それでも、捨てるよりはよほど良いのだけれど……。
胸の白い毛も、目の周りの淵も小さなえせるにそっくりだ。
唯一、鼻筋に白い毛がない、それだけが違いだった。
「えせるの生まれ変わりを」と思ってきた私は、そこで暫く動けなくなった。
この子は、えせるより早く生まれているから、えせるの生まれ変わりではない。
それでも、この子の目は、えせるが大きくなった時にきっとこうなるだろう、と思い描いていた姿そのままだった。
躊躇っていた私に、うさぎ屋の店主は言った。
「その子、なくしちゃった子に似てるでしょ? 気に入ったのならあげるよ」
その時、私は一人で、仔牛は仕事中だった。
でも、その言葉をきいた時に、私達がえせるを探し続けてきたという偶然、今この子が里親を待っているという偶然、そして、なぜか、うさぎ屋さんの、私達に引き取ってもらいたい、と思っている強い願いが伝わってきてしまって、私は仔牛に尋ねる事もせずに、貰い受ける事を決めてしまった。
これも、ちいさなえせるがつないでくれた縁だ。
仔牛が、どうしてもえせるの生まれ変わりが欲しい、と言うなら、またその子を探し続ければいい、と。
もしかしたら、ロスとこの子の子供の中に、ちいさなえせるが居るかもしれないし……
それから、えせるは意図せずかかってしまったケースも含め、ロスとの間に20匹近い子供を生んだ。
そうして、気がつけば、子供達よりなにより、よほど母えせるの方がえせるらしい、と思っている自分達が居た。
いつから、子供達の中に小さなえせるが生まれる事をそれほど強く願わなくなったのか、よく覚えていないが、今の私は、やはり母えせるの中に小さなえせるの魂がとけ込んでしまったのではないか、と思っている。
生まれ変わりではなく、縁の中に、逝ってしまった大切な存在の欠片が、私達を通してとけ込んでいくのだ。
HRSで出会った三匹の男の子達は、外見は誰もロスには似ていない。
流石に、ここまで違うと、まだ暫くは辛いかな、もう少し様子をみようか、と思っていたら、最後につれられてきた白と赤茶のブチのサテンのマンゴー君が、挨拶をしにきてくれた。
その湿った鼻の感触、初対面の人間の膝に恐がりもせずに前足をかける、小さな重みが、出会った頃のロスを思い出させた。
彼は1歳、まだ性格はやんちゃだ。
このくらいのウサギはこんなものかな、と思っていると、ふとした仕草が、どんどんロスに重なってくる。
最初は、全然ロスに似ていない、と思っていたのに。
私達の目の前で、ロスの魂が彼にとけ込んでいくのを見ているような、そんな不思議な感じがした。
別れ際に、だっこをさせてもらって、ロスより小さく見える瞳を覗き込むと、ロスと同じ色の瞳がこちらをじっと見ていた。
何故か、この目が、ロスに似ている、と思った。形も大きさも違うのに、晩年の、優しいけど、ちょっと悲しげな瞳に似ている、と。
この目を、もっと楽しく輝かせてやりたい、と思った。何故か、そうすれば、ロスも楽しくなれるような、そんな気がしたからだ。
結局、10日後にもう一度エセル、プチとの相性をみることにした。
特にバトルが起こらなければ、マンゴー君をうちに引き取る事になるだろう。
もしかしたら、もっと探せば、ロスに似た子はいるのかも知れない。
親バカながら、ハガキのモデルにもなれる、と思っていたロスに比べると、サテンのマンゴー君は美人とは言いがたい。
でも、私は、これもやっぱりロスがつないだ縁なんじゃないだろうか、と思っている。
3匹を物色して、唯一えせるのマウント攻撃に怯えなかったマンゴー君を見て、「よし、こいつに決めた!」とロスが入り込んでくれたのじゃないか、と、そんな気がするのだ。
その夜、私は不思議な夢を見た。
このところ、ずっと夢見が悪く、何か調子がおかしいとずっと思っていたのに、それは久々に穏やかな夢だった。
ベルリン・フィルの演奏をスピーカー越しに聞いている自分。
それは、マーラーの交響曲第2番「復活」の最終楽章だった。
「復活」なんて、もう何年もまともに聞いていないし、マーラーも最近は聞かないのに、何故夢の中でそれを聞いていたのか、自分でも分からない。
多分、ロスはマンゴーを通して「復活」した、と、信じたい自分の潜在意識が見せた夢なんだろう。
でも、この四日間で、沢山積み重なった偶然の縁が、もしかしたら、という気分にさせてくれるのだ。
もしかしたら、ロスが、「もう俺は復活したぞ!」と、伝えにきてくれたのかも知れない、と。
アメリカには、Rainbow Bridgeという、作者不詳の散文詩がある。
虹の橋が天国への手前にかかっていて、飼い主より先立ったペットは、そのふもとで老いる事も病む事もなく、やがて飼い主がそこを訪れる日を待っている。
そうして、いつかペットと飼い主は再び橋の麓で出会い、共に天国へと渡って行く、というものだ。
それはとても美しい詩で、涙を誘うものでもあるけれど、この中に書かれているのは、過去から未来へ一直線に続く世界観だ。
日本に生まれ育った私には、もう少し、違う感傷がある。
虹の橋は天国へとかかっているのではなく、他の誰かに向けてかかっているのじゃないだろうか、と。
その虹の橋とは、残された人間の、逝った者に対する記憶であり、橋がかかることで、逝った者の記憶は別の存在の中で生きる。
そうして、記憶の虹で結ばれた縁は、繋がる者全ての未来を少しずつ変えてゆく。
向こう岸に待っているのが、シェルターで里親を待っている動物なら、それは激変といっていいだろう。
縁を結ぶ前と後は、既に同じでは有り得ず、そこに、誰かが生きた証が残る。
そうして、いつか自分が誰かの記憶となり橋を渡る日がくるまで、生き物はみな、縁のリレーをしながら生きていくのではないだろうか。
大切な存在を失えば、悲しい。つらい。
「もう、辛い思いはしたくないから……」と、大切なペットの記憶を胸に仕舞い、二度とペットは飼わないと言う人も多いと聞く。
私も、昔、大変賢かった犬が逝ってしまった時には、そう思った。
でも、小さなえせるは、そうして自分の記憶にしまい込むだけではない、別の生き方を教えてくれた。
虹の橋のたもとを掴んで、我が家にきてくれたちいさなウサギ達に、私は心から感謝している。
縁、という単語を、英語で調べようとしたが、なかなか日本語のニュアンスをうまく表す単語がみつからなかった。

縁というもの” への3件のコメント

  1. 拍手を送ります!
    夢で聴いた音楽が”大地の歌”の第六楽章でなくて良かったですね。

  2. 本当に!(笑)
    余談になりますが、もともと私は音楽の標題にかなり懐疑的だったのですが(身内に毎回曲が出来上がってしまってからウンウン唸ってタイトルつける作曲家がいるもので…)この一件で標題にも意味があるのかな、と思うようになりました。
    というのは、ろし太がいなくなってから、職場でずっとショパンのピアノソナタ第2番第3楽章(葬送行進曲)ばかり聴いていたのです。勿論イヤホンで、ですが。
    我ながら、ベタだなあ、と思いましたが、何故かその時は、それしか耳が受け付けてくれなくて。
    しんどくても、前に進まなければならないときのために、(葬送)行進曲があるのかなあ、なんて思いました。
    そんな毎日の後での「復活」ですから、おかしな話ですが、自分の夢に随分救われました。
    勿論マーラーの曲の素晴らしさもあるのですが、その標題の意味するところが、当時の私の心をどれだけ軽くしてくれたか知れません。まさしく、救いの音楽でした。
    ……やっぱり、ろし太が来てくれたのかな(笑)。

  3. 私の方も余談になりますが(笑)・・・
    実は葬送行進曲、結構好きなんですよ。
    ショパンの曲では”幻想ポロネーズ”が断トツ好きですけどね。あの曲は別格かなぁ。
    哀しいほどに美しいです。
    あー、余談なのでリコメはお気になさらずに~

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