ろし太さん、ろし太、ろす太ポン、言葉の響きとこちらの気分で色んな風に呼んだけれど、本当の名前は
アイオロス・ヴィンセント・エインズワース
という、物凄く立派な名前を持っている。
ろし太さん、ろし太、ろす太ポン、言葉の響きとこちらの気分で色んな風に呼んだけれど、本当の名前は
アイオロス・ヴィンセント・エインズワース
という、物凄く立派な名前を持っている。
ろし太さんがうちに来たのは、仔牛がねだって連れて帰ってきてもらったプチ・エセルをたった3日でしなせてしまって、泣いても泣いても泣ききれない所に嵌っていたところ、もぐらが根気よく付き合ってくれて、連れて帰って来たうさぎ。
「クリスマス・プレゼントだよ」
と言われたのを、普段はすっかり忘れていたくせに、今頃になって思い出す。
ろし太さんは、ウチに来た時は王子様だった。
これまでの狭いケージの中から、一挙に3部屋分くらいのモノが沢山置いてあって障害物だらけの場所を提供されて、毎日風鳴りを上げるようにして走り回っていた。
みるみる後ろ足ががっしりとした。
ウチは、座卓の家なので、ろし太さんは、ちょろいもんよ、と食器の並ぶテーブルに軽々とジャンプする。
「うわっ! これはお前のご飯じゃないよっ!」
と言っても、まだご飯はないかと探し回る。
ろし太さんはとてもかわいらしいプライドの持ち主で、普段は絶対撫でさせてなんかくれなかったけれど、ご飯の為なら、身も心も売ってくれた。
すっげぇ、嫌なんだけど!!
と全身でオーラを発揮しながら触らせてくれた。
ご飯を食べるためなら膝にまで乗っかってくれた。
ろし太さんは、一週間のうち週末にしか帰って来れないもぐらが、仔牛が一匹でウチで待っているのは寂しかろう、と一度失敗したにもかかわらずもう一度チャレンジさせてくれた子だった。
仔牛は、よくつまらない事でももぐらに電話してろし太さんの事を喋った。
ろし太さんは、殆ど仔牛のテリトリーで一緒に生活をした。寝る場所以外。
ろし太さんは、自分と仔牛の体の大きさなんかちっとも気にせず、仔牛を恐がらなかった。
仔牛の弁当を食べたし、教科書を噛んだし、ケーブルも噛んだ。
ペンタブレットの何千円もするペンだって齧ってしまった。
齧っていいよ、と言った物は齧らなかったけれど。
半年くらいべったりで、仔牛ともぐらと2匹にちやほやされてサーキットうさぎと呼ばれた。
ろし太さんが本当に無邪気にオレ様で居られたのは、この半年間だけだったのじゃないかと、ずっと思っていた。
えせるが来てから、ろし太さんの嵐はやって来た。
二人とも去勢していなかったのと、とても相性があったのと、ちょっとえせるに神経が集まったのとで、仔牛は何度もろし太さんの寂しい顔を見ている。
「お前も可愛い。大事」
そんな事言われたって、甘えんぼのろし太さんのどれ程の慰めになっただろうか、とそう思う。
仔牛は、ろし太さんとえせると仔牛ともぐら、それからかわいいこうさぎ達に囲まれて暮らす、という自分に都合のいい夢から離れられず、ろし太さんにはいつも我慢してもらっていた。
それでも、夜、遅く、えせるも寝てしまった後、ろし太は低くぶっぶっと口笛のように声を出しながら部屋を探検して回り、気が向いたら小さい鼻で仔牛の膝をツンと押した。
遊びたいのかな?
と思って、ろし太さんの名前を呼んで撫でてやろうとすると、ふいっと体をくねらせて去っていく。
猫のように交流は出来ないなぁ、とその度に思った。
毎日毎日、夕飯はいつもろし太さんと食べていた。
本当に食べる事が好きな子だった。
ろし太さんの好きな草なら大体分かるようになった。干草の山から選って、それを差し出して食べてもらえると、やっぱり交流出来てる、と嬉しかった。
ろし太さんを幸せにしてやるために、そう思って去勢手術をしようと決めたけれど、むしろ、ろし太さんの幸せな姿を見て自分が幸せになりたかった。
ろし太さんが幸せなら、自分も幸せ。
前日、草が入ってないトイレにろし太さんを閉じ込めた。犬用のサークルにはお水のお皿しか入っていない。
「今日はもう食べられないんだよ」
そういって頭を一撫で。
でも、宿題があるからってそのまま。
もぐらはちゃんと気をつけてローヤルゼリーを飲ましてくれたのに、仔牛はいつも自分優先。
朝、移動用ケージにろし太さんを入れたのももぐら。
仔牛はやっぱり宿題をぎりぎりまでやっている。
病院で、うさぎの権威、というような感じの先生の手の下で、いつもはあんなに嫌がってジタバタするつるつるの台の上で伸びていた。
はっ、とした間に、もうろし太さんは先生に抱えられて部屋を出て行こうとしていた。
思わず声を出してしまった。
そうしたら、先生が振り返って、またろし太さんを連れてきてくれて、
「ハグする?」
って聞いたくれた。
たかが去勢手術なのに、仔牛はみっともなく心配丸出しの顔していた。
本当は、ぎゅうって抱きしめて、ちゅーして大丈夫だよ、すぐ会えるよ、って言ってあげたかったのに、先生や他の人が見ているのが恥ずかしくて急いでろし太さんの頭をなでて、
「迎えに来るから……」
と誤魔化して、そのまま行かせてしまった。
ろし太さんは、先生の腕の中、ものすごく情けない顔をして、ぷらん、と抱かれていた。
大丈夫。
大丈夫。
またすぐに会えるから。
そう念を飛ばす。ろし太さんガンバレ、って。
学校は今日は3時に終わる。
帰ったら、傷にバイ菌が入らないようにろし太さんのマットを掃除して……と前日には考えていた事をすっかり忘れて、どうしたかなぁ、とそればかり。
遅れていった朝の授業で、突然音を立てて雨が降った。
ろし太さんは湿気が嫌いなのに……。
手術の日にこんなのやだなぁ、って思った。
また湿気ちゃうじゃない、って。
午前の授業が終わって、もぐらに電話する。
まだ電話はかかってきていない、との事。
でも、次にもぐらから電話がかかってきたら、ろし太さんは起きなかった、って知らされた。
もぐらにばかり英語の対応を任せてきて、こんな事をもぐら一人で聞いたのか思ってぞっとした。
病院に行っても、先生が廊下の向こうからやって来ても、二人で力を合わせて気を通せば、奇跡が起こるかもしれないって、そんな事ばかり考えてた。
でも、小さな診察室に行って、ろし太さんが紙の浅い箱の中に入って帰って来たとき、どうしたらいいのか分からなかった。
でも、もぐらがまずろし太さんに触ってくれた。
触っても、いいんだ、と思った。
ふわふわの毛の手触りはいつもと一緒だった。
プチ・エセルの時は、もっと硬かったと思う。
あの時、プチ・エセルは仔牛の腕の中で、本当に瞳から光が消えて言ったのを見たから、ああ、死んでしまうんだ、と思ったけれど、ろし太さんは違う。
瞳を見ると黒かった。
プチ・エセルはもっと硬質な感じになっていた。
横でもぐらが泣いている。
仔牛は、声を出そうとしたら、涙どっと出てきた。
「まだあったかいよ」
「目が閉じない」
もぐらに言われて、もぐらに返事をしたかった。
もぐらは仔牛の体をさすってくれた。
なぐさめてくれた。
でも、仔牛はもぐらをなぐさめなかった。
ろし太さんの黒い瞳に、埃が付いていた。
こんなの平気でつけていられない、生きていたら。
そう思った。
ただ情けなくて、情けなくて、そして、約束を守れなかった事が申し訳なくて、左手でろし太の体に繋がりながら、泣いた。
仔牛が泣いている間にも、声を詰まらせながらももぐらは必死で先生との対話をしてくれている。
「もしろし太が帰ってこなかったらどうする?」
「返してよ、って言う!」
その言葉どおり、もぐらはきちんと先生の処置に手抜かりが無かったか、聞いた。
私はただ泣いているだけだった。
泣き止もうと思えば、泣きやめたのかもしれない。
先生に対する不信感は沢山あった。
それでも、ろし太に触っている事が大事だった。
抱きしめたくて、抱き上げると、体の重さは変わらない。
ただ、首だけが、ぐにゃんとしてしまって、エンセファリトゾーンの時だってこんな事にはならなかったのに、と慌てて首を支える。
車の中でも額を撫でる。
家に帰っても、ろし太さんがピョン、と飛び乗っていたソファに座って抱き続ける。
かわいい。かわいい。すごく可愛い。
みんなで寄ってたかって、自分より高いところから見下ろされて、硬い台の上で死なせるなんて、なんて酷いことをしたんだろう。
ろし太は捨てられたと思ったかもしれない。
そう思うと、辛くて、済まなくて、そんな事ないんだと伝えたくて。
そんな事をしている間にも、もぐらはきちんと色んなことを調べてくれた。
仔牛がろし太の解剖を渋っていたから、きちんと火葬できるところまで調べて、電話してくれた。
ろし太の家をもぐらがバリバリと分解し始めたとき、仔牛は自分の失敗に気が付いた。
人間、二人居て、どちらかが病気をすると、どちらかは病気になれない。
そのなれない役をもぐらに押し付けている気がした。
もぐらと話して、ちゃんとコミュニュケーションをとらなくちゃ、そう思ったけれど、うまくいかない。
仔牛は、ろし太の家がなくなってしまうのが、ますますろし太なんてもういらないよ、と言っているようでろし太に申し訳なく、けれど、そんなの人間の手前勝手な感傷、仔牛の感傷だって知っている。
もぐらはこれがあると辛いんだ。
協力しなくちゃ。
家族なんだから。
でも、ろし太の体から手を離すのがイヤでたまらない。
後2年は生きたのではないかと思う。
よいよいになってしまったかもしれないけれど、ローヤルゼリーもある。気の真似事もなんとかもぐらに及ばずもできる。
どんなにガタがきても、おうちで、ろし太が息を引き取るときには、苦しくないように、精一杯愉気してやろう、そう思っていた。
それなのに。
手の届かないところで、ろし太は一人でぽつんと、知らない人に囲まれて逝かなくてはならない状況に追い詰めた。
生き物と暮らしていて失敗をするのは、自分にとって都合のよい様に動かそうと「無自覚」に行動を起こしているときだ。
ろし太は仔牛にとって都合のよいタイミング、理由で手術台の上に上らせられた。
けれど、本当に必要だったのは、ろし太にとって都合のいいタイミングと理由だった。
痛い。
とても痛い。
今部屋を見ても、どこを見てもろし太は居ない。
誰かの家にもらわれていった、って思うことも出来る。
もう会えないけれど、遠くで幸せにやっていると思うこともできる。
でも、したくない。
ろし太が居ない、ろし太が居ない、ろし太が居ない。
そればかりが、体の中からぷつぷつと溢れる。
自分を誤魔化すなんて、失礼だ。ろし太はもう仔牛の言葉じゃ誤魔化されてくれないレベルに、死なされてしまったのだから。
でも、泣いているのだって、失礼だ。
もぐらにも、残ったお嬢さんたちにも。
でも、ろし太が居ない。ろし太が居ない。
もっと沢山見たかったのに、もっと沢山触りたかったのに、ろし太がいない。
もっと沢山撫でたかったのに。
泣いても泣いても、頭の芯は溶けずに、分からないまま。
腐ってしまってもいい、溶けてしまってもいい。
そのぐらいずっとあの体を抱きしめていられたら、とそう思う。
焼いて灰にしてしまうくらいなら、自分の腕の中で土になればいい。
あの体が、自分から切り離されたのがとても辛い。
泣いていると、魂を縛ってしまうという人もいる。
魂なんてないんだって人もいる。
仔牛はバカだから、どちらもの意見もわかったようなわからないまま。
ただ、ろし太の体が恋しくて、それだけ。
それすらも、5年も経てばきっと風化してしまうと知っている。
でも、それすら恐くて、どんなろし太の記憶も離すものかと怯えている。
本当に、なんてバカで、常識を無視して自分だけ考えているのだろうと、もっと世間のレールの上に乗らなきゃダメだ、って冷静に言っている自分の声も聞こえている。
けれど、そんな自分が、ろし太を愛した。
それが、どんなにエゴでもろし太の希望に添えなくても、それでも好きだったんだ、だから、もう一度、抱きしめたい。
空気を撫でながら、ろし太の体を必死に思い描く。